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乾杯は【伊丹の酒】で!

第18回 夢は「伊丹百景」など地元を描くこと

株式会社ダイフク元取締役 若林良一さん

前回登場の森田伸治さんから紹介されたのは、元陸軍飛行隊中尉の若林良一さん。自分史と、戦闘機整備士としての記録の2冊を発行し、趣味の油絵制作は150枚にも及び、毎週元気にゴルフを楽しんでいます。

プロフィール
若林 良一(わかばやし よしかず)さん
大正11年、兵庫県氷上郡(現丹波市)の旧家に生まれる。神戸高等工業学校(現神戸大学工学部)機械科を半年繰り上げ卒業し、昭和17年10月に飛行整備隊入営。台湾で敗戦を迎え、昭和21年に帰国し、大阪大学工学部溶接学科に入学。同大学院修了後、株式会社ダイフクに入社、取締役で退職後、株式会社杉谷技術士事務所で役員を務め、77歳で退職。かたわら、自治会長として地域に貢献し、退職後は油彩、ゴルフ、旅行など、多趣味を楽しんでいる。著書に「私ら、野にある二輪草」、「整備に懸けた青春~陸軍飛行二〇戦隊実録~」がある。

紙一重で爆撃から逃れ「生かされている」と感じる

戦争では多くの大切な仲間を失いました。
英霊に応えるためにも、今後も元気で
活動できるよう努力を続けようと思っています
戦争では多くの大切な仲間を失いました。
英霊に応えるためにも、今後も元気で
活動できるよう努力を続けようと思っています
――若林さんは、村長の家に生まれ、宝物のように育てられたのですね。

両親の結婚後8年目にやっと生まれた子どもで、おまけに医者にも見放された程の虚弱児だったので、それは大事に育てられ、外で友達と遊ぶこともありませんでした。おかげで、はにかみやの内弁慶に育ってしまい、小学校では授業中に手も挙げられなかったのです。ところが中学校に入ってみると、入学試験の点数で級長に指名されてしまい、それが嫌で嫌で・・・。でも、唱歌と体育が足を引っ張ったおかげで、2年目からは成績がトップクラスではなくなり、級長をせずに済みました(笑)。

――昭和17年、大学生の時に軍の召集令状が来て・・・。

大の軍人嫌いでしたが、時勢には従うほかありませんでした。旧制専門学校(今の大学)の学生は、すぐに少尉になれたのですが、苦労知らずに育った甘えん坊の自分を鍛えようと、星1つの二等兵からスタートしました。
ビンタが茶飯事の教育隊、航空整備学校を終えて、飛行第二〇戦隊に配属され、台湾へ向かいました。フィリピン決戦の命が下りた時、全員が受けた身体検査に引っ掛かって陸軍病院に1カ月近く入院。その間に部隊は惨敗し、僅かの幹部が台湾へ帰還しました。その台湾で戦力回復をはかり、沖縄戦へ多数の特攻機を飛ばし、整備小隊長の任務を果たしました。その秘密飛行場が爆撃された時も私のすぐ横に爆弾が落ちましたが紙一重で助かり、何かの力によって「生かされている」と感じました。青春の全てを特攻機の整備にかけていました。

――敗戦の翌年に帰国し、大阪大学の溶接学科を受験されたのですね。

整備隊だった私は、アメリカの飛行機を見て、空気抵抗を最小限にした溶接技術を素晴らしいと感じていたこともあり、大阪大学工学部に設置されて3年目の溶接学科を受験しました。大学院まで進み、修了後は株式会社ダイフクに勤務しました。

1mの高さから注がれる「淡にごり」がオススメ

平成21年4月に結婚60年のダイヤモンド婚を
迎えた、仲の良い若林さんご夫妻。
「家庭が幸せなら、後は何も要りません」
平成21年4月に結婚60年のダイヤモンド婚を
迎えた、仲の良い若林さんご夫妻。
「家庭が幸せなら、後は何も要りません」
――若林さんは、伊丹に住んで50年なんですね。 

26歳の時に、5歳年下の初めて会ういとこと見合いをして結婚。会社の転勤等で13回も引っ越しをしましたが、伊丹は阪神間の中でものんびりとしていて、空気も水もおいしくとても住みやすい街なので、ここに落ち着いています。昭和45年に地域の自治会長を務め、その時に老人会を発足させました。妻も老人会の会長を8年間担当するなど、地域の方々とも深くお付き合いしています。


――ではお酒のお話を聞かせてください。お酒は伊丹の酒「白雪」がお気に入りだとか。 

昔、「白雪」が金賞を取った銘酒のしぼりたてを頂いたことがあり、そのおいしさに感激して以来、「白雪」のファンになりました。「白雪ブルワリービレッジ長寿蔵」には、大阪の仲間にも時々来てもらいます。1メートルほどの高さから曲芸のようにグラスに注いでくれる「伊丹諸白 淡にごり」など、楽しめるお酒やビールがたくさんありますし、お料理もおいしいですね。

――お家での晩酌は、何を飲まれますか? 

最近は、ビールが多いです。良い絵が描けたから、素敵な出会いがあったから、ちょっと疲れたから・・・と理由をつけては、よく飲みます。妻には、「そんな風に言い訳なんかしなくても、ダメなんて言わないから、普通に飲んだら良いのに」なんて、言われてますが(笑)。

これまで描いた油絵は150枚!

自宅2階のアトリエで描いた50号の「春を待つ合掌村」は、ホームグラウンドの新宝塚カントリークラブ内レストランに飾られている
自宅2階のアトリエで描いた50号の「春を待つ合掌村」は、ホームグラウンドの新宝塚カントリークラブ内レストランに飾られている
――若林さんは多趣味で、とてもお忙しそうですね。

子どものころから絵は好きでしたが、油絵を始めたのは、会社を辞めてからです。旅行で訪れたヨーロッパや国内の自然風景を中心に、これまで150枚ほど描きました。6年前、80歳の記念に大阪・心斎橋で個展を開き、同級生や戦友、親戚など
に案内を出したところ、1週間の会期中に約500人が来てくれて、久しぶりの再会を喜びました。会場の画廊始まって以来の来客数だったそうで、さすがに個展終了後は、2日ほど寝込みましたが(笑)。

元気にスケッチ旅行に出かけられる間は、遠方の風景画を描いていき、将来、旅行が大変になってきたら、「伊丹百景」など地元を描こうと夢見ています。水彩画では、伊丹七十五景まで仕上げているんですけどね。
<写真上>
著書「私ら、野にある二輪草」(左)と「整備に懸けた青春 陸軍飛行第二〇戦隊実録」(右)
<写真下>
ホールインワン記念のテレフォンカード
<写真上>
著書「私ら、野にある二輪草」(左)と「整備に懸けた青春 陸軍飛行第二〇戦隊実録」(右)
<写真下>
ホールインワン記念のテレフォンカード
――文章もお得意で、これまで2冊を出版されていますね。

平成17年には、子や孫に生きてきた歴史を残しておこうと思い、自分史「私ら、野にある二輪草」を書きました。丹波と但馬の田舎から出て来て2人で一緒に頑張ってきた私たち夫婦を、1本の茎から2つの花をつける二輪草にたとえて付けたタイトルです。平成19年に出版された、2冊目の「整備に懸けた青春 陸軍飛行第二〇戦隊実録」は、書店にも並んでいる書籍です。

それからゴルフも好きで、月に3、4回は行きますね。神戸大学のOB、会社のOB、ゴルフ場で知り合った人などと一緒に回っています。以前ホールインワンを取った時には、大山の秋を描いた油絵を、テレフォンカードにしてお配りしました。

お天気の日は絵を描き、曇の日は散歩、雨の日は執筆活動や、写真アルバムづくり、切手整理等をしています。企業ではよく、3M=ムダ、ムラ、ムリの改善活動をしますが、自分にもこの3M排除を心掛けて、家庭の幸せをモットーに生活しています。

――最後に、伊丹に望むことを教えてください。

伊丹には、もっと素敵なお店がたくさんあれば良いのに・・・と思いますね。伊丹らしいお土産を人に渡したくても、だんだん思い浮かばず考えてしまいます。美鈴町の「しまもと昆布」は、とてもおいしくて時々利用しますが、上品な味のお菓子屋さんなんかがもっとあればうれしいです。それから、ちょっと気の利いたおしゃれなレストランがもう少し何軒もあれば、伊丹にやって来てくれる人が増えるんじゃないでしょうか。

若林良一さんからのお友達紹介

「『ダジャレ会』で毎月お世話になっている、吉田宏さんを紹介します。大阪の居酒屋で偶然出会ったのですが、話をしてみるとご近所同士でした。とても楽しい方で、おいしいお酒の飲み方も教えてもらっています」
小西新太郎さん→石川道子さん→善見壽男さん→古田孝雄さん→武内重治さん→久保武久さん→岩城敏之さん→大森英夫さん→加藤拓さん→荘司幸子さん→原弘さん→山本泰通さん→石川大海さん→森本啓一さん→古結一市さん→古結芳子さん→森田伸治さん→若林良一さん→吉田宏さん