地元暮らしをちょっぴり楽しくするようなオリジナル情報なら、伊丹市ポータル「いたみん」!
文字サイズ文字を小さくする文字を大きくする

伊丹市ポータル「いたみん」

乾杯は【伊丹の酒】で!

第14回 荒木村重は人命を大切にする武将

伊丹市立サンシティホール館長 森本啓一さん

前回登場の石川大海さんから紹介されたのは、伊丹市立サンシティホール館長で、元伊丹市収入役の森本啓一さん。有岡城主・荒木村重研究会の会長でもあり、「何を見ても村重に結び付けて考えるのが楽しい」と、常にアンテナを張り巡らせています。

肺結核でジャーナリストの夢をあきらめ

「朝鮮から送った13個の荷物のうち、無事に日本に届いたのはたった1個だけ。機雷に触れて沈没してしまったんだと思います」
「朝鮮から送った13個の荷物のうち、無事に日本に届いたのはたった1個だけ。機雷に触れて沈没してしまったんだと思います」
――森本さんの出身は、どちらですか?

親父が朝鮮総督府で仕事をしていたので、朝鮮で生まれ10歳まで過ごしました。韓国人の友達も多く、牛の胃袋のボールを蹴ったり、田んぼでカエルを釣ったりして遊びましたね。昭和20年の8月15日、日本人小学校でピーピーガーガーいう玉音放送を聞いた後、よく分からないまま帰宅させられました。でもその日を境に、まちの至る所に韓国の旗が揚がり、ものすごい数の米軍機が飛行場に降り立ち、とてもびっくりしたのを覚えています。
10月に、ヤミ船に乗って日本に向かいましたが、1枚の畳に7人が寝て夜にトイレにも行けないような状態で・・・・・・。玄界灘の機雷を警戒しながら行きつ戻りつして、1週間かかって佐賀県唐津の港に着きました。

――佐賀県、石川県で過ごし、中学1年の5月に伊丹に引っ越して来られたのですね。

親父が大阪の出張からお土産で買ってきてくれた手塚治虫の漫画を見て、「すごいところだ」と思っていた大阪へ引っ越すと聞いたときは、うれしかったです。梅田はやっぱり都会でしたが、阪急電車で十三駅を過ぎたころから、戦争中の空襲の焼け跡が残り街灯もなく、降り立った伊丹駅は、暗いという印象しかなかったですね。転校した北中学校のレベルは高く、英語など全く分からなくて、最初はいじめられたこともありました。
「子どものころから本が大好きで、貸本屋で三銃士や紅はこべなどの世界全集を借りて、毎日5冊10冊と読んでいました」
「子どものころから本が大好きで、貸本屋で三銃士や紅はこべなどの世界全集を借りて、毎日5冊10冊と読んでいました」
――そのころ、将来は何になりたいと?

中学時代の夢は、文学者。県立伊丹高校では雑誌編集部で活動していました。卒業後は就職するつもりでしたが、友達に誘われて大学受験したら合格してしまい、親父に頼み込んで同志社大学法学部に入りました。大学で突き動かされたのは、新島襄の碑文「良心の全身に充満したる丈夫(ますらお)の起り来らん事を」です。良心に満ちた青年を望んでやまない、というこの言葉は今でも私のバックボーンになっています。
大学でも雑誌編集をして、ジャーナリストを夢みて新聞社を受けましたが、健康診断で肺結核が見つかったのです。1年半療養し、知人の勧めで伊丹市役所に入りました。

市役所生活の半分が空港問題担当

「交通局の担当だった時は、バスに善意の傘を積んだり、子どもたちの絵や著名人の格言を展示して、伊丹市バスをアピールしました」
「交通局の担当だった時は、バスに善意の傘を積んだり、子どもたちの絵や著名人の格言を展示して、伊丹市バスをアピールしました」
――伊丹市役所では、主にどんな部署で仕事を?

入所翌年の昭和36年に企画課に配属され、16年間空港問題を担当していました。伊丹空港は、昭和33年に米軍から返還されて、1828mのA滑走路に加え、3000mのB滑走路を「東京オリンピックまでに」を合言葉に、拡張する工事を進めていました。やがて、大型ジェット機が乗り入れるようになり、大きな騒音問題に発展。当時のジェット機の音はひどくて、電車のガード下が100ホーンなのですが、空港近隣の住宅では120ホーンの騒音で、内臓が飛び出そうな音に視察に来た県知事も身をかがめていました。

――航空機の騒音がピークの時代だったんですね。

伊丹市は、全国初の騒音監視システムや、伊丹市独自の環境基準を、国より1年も前に作りました。当時の市長は航空機燃料譲与税を提案し、全国の空港所在自治体に呼びかけたのです。伊丹のような小さな市の提案が国を動かし、税収は学校、病院などの防音工事や環境対策に充てられました。
当時の私は、黒い丸縁眼鏡をかけていて、「空港問題を担当している間はこの眼鏡で全部見ておきたい」と、フレームが真ん中で折れてもボンドとセロテープで巻いてマジックを塗り、何度も修理して使っていました。「森本さん、そろそろ眼鏡を換えたらどうですか?」と言われながら(笑)。

――伊丹市収入役を務めた後、シルバー人材センターの理事長に。

伊丹市のシルバー人材センターは、昭和50年に、全国で2番目に設立されたセンターなんです。その理事長になった年に、名古屋へ視察に行った夜のことですが、胃が重くて吐いても治らなくて、翌朝、這うように行った病院の受付で、意識不明になりました。急性心筋梗塞だったんです。気がついたら、真っ暗な海の中で医師が私の体を診察している光景を、上から私は見下ろしているんです。医師がチラチラっとこちらを見上げている顔に、スポットライトのように光が当たり……。気がついたら病院のベッドの上でした。伊丹から駆けつけたワイフは、葬式の用意をしてこいといわれていたそうです。

――魂が離脱した臨死体験をされたんですね。

死んだかもしれない命ですから、生きている間は一生懸命、ヤル気を出して頑張ろうと思いました。シルバー人材センターでは、伊丹らしい仕事をどんどん増やしていき、全国大会で事例発表もしました。一番の思い出は、昆陽池の西側に「シルバーワーク生きがいセンター」の事務所ができたこと。転々としていたので居場所ができて、うれしかったです。

夢は村重研究のまとめと、詩集を出すこと

「新聞を読んでも、テレビを見ても、誰かと話をしていても、『この時、村重なら』と、すぐに結び付けてしまいます」
「新聞を読んでも、テレビを見ても、誰かと話をしていても、『この時、村重なら』と、すぐに結び付けてしまいます」
――ところで、お酒は強い方ですか?

そんなに強くないですが、お酒の雰囲気が好きで、飲みに行く場所はいつも相手に合わせます。昼間から、立ち飲み屋で冷酒を飲むこともあるんですよ(笑)。お酒の場では、相手の話の聞き役になることが、多いですね。

――森本さんは郷土史研究家でもあり、荒木村重研究会の会長をされていますが、きっかけは?

有岡城主・荒木村重研究の第一人者、瓦田昇先生が倒れ、先生の研究を引き継ぐ形で、研究会を立ち上げました。信長に反逆して逃げたと評価の低い村重ですが、詳しく調べてみると、実は人の命をとても大切にする武将だったように感じるのです。それが、部下を必要な道具としてしか見なかった信長とは、大きく違うところだと。

――荒木村重研究会ではどんな活動を?

会員は全国に40人弱で、毎月の定例会には近畿各地から20人が参加し、調査を交換しあったり、史跡を訪ねたりしています。広島、福井、この前は、信長と敵対していた足利義昭の御所があった滋賀県守山市に行ってきました。現地に足を運ぶと、小さなヒントで様々なことが村重と結びつき、楽しいです。ひらめきがすぐメモできるよう、いつもポケットにはA4の用紙を入れているんです。研究会以外では、伊丹歴史探訪のボランティアや講師もしていて、先日NHKで放送された、村重の息子の絵師・岩佐又兵衛の特集番組では、エンディングクレジットに名前が流れました。

――再放送されれば、ぜひ見たいですね。最後に、森本さんの今後の夢を教えてください。

村重研究をまとめること。それから、昔から書き溜めている、というより溜まっている詩を整理して、小さな詩集を出したいですね。例えば「葉っぱのフレディ」のように、心に感動を与えるような作品を・・・と考えています。

森本啓一さんからのお友達紹介

「伊丹の俳人・上島鬼貫(うえしまおにつら)の子孫である、古結一市(こけつかずいち)さんを紹介します。禅の心を伝える松原泰道(たいどう)老師の、関西でのお世話係もされていて、社会に対して恩恵の念をもっている方です」
小西新太郎さん→石川道子さん→善見壽男さん→古田孝雄さん→武内重治さん→久保武久さん→岩城敏之さん→大森英夫さん→加藤拓さん→荘司幸子さん→原弘さん→山本泰通さん→石川大海さん→森本啓一さん→古結一市さん

≪取材スペース提供≫
オーダー家具専門店 Cell-D(セル・ディー)
伊丹市行基町1-10-101
TEL&FAX 072-773-7933
営業時間 11:00~19:00