「おもしろんご」は論語全般に流れている知恵の中から、21世紀のキーワード=思いやりと調和の心を引き出せたら良いなぁと、2013年から4年間、実施しました。
当たり前が当たり前でなくなった今、改めて暮らし方や生き方を考えるときではないかと思います。
難しそうに聞こえる「論語」に少し興味を持ち、「おもしろい」「なるほど」と思っていただけたら何よりです。
子曰く、徳は弧ならず、必ずとなりあり
先生はおっしゃった、善い事を行う人は孤独ではない、必ず共鳴してくれる人が現れるものである。
自分の品性を磨き、常に人を思いやって暮らす人は、孤立してしまうことはない。必ずその心に打たれ、共に行動したり協力したりする人が現れるものである。
新型コロナウイルス感染という人類にとって大変な事態がおき、世界中の人が困っています。そんな中だからこそ、心に響き勇気をもらえる論語のひとつです。
自分のことは二の次にして、感染の恐れのある中、病院での治療や介護にあたっておられる方々や生活物資を切らさないよう働いている方々。そしてマスクがないと聞くと、自分で作り身近な人にあげる方々。こんな日々だからこそ、徳を積み、行動している人をよく目にします。そんな善い行動につられて、自分も何かできることがないかと考え、行動しています。
足りない物を買い占めたり、奪い合ったり、徳とは反対の行動を見聞きすると悲しくなります。小さなことでよい 自分も徳を積む人になりたいです。それが、世界中に隣人をつくり、コロナウイルスの克服につながると信じたいです。
子曰く、利によりて行えば 怨み多し
先生はおっしゃった、利益によって行動すれば 怨まれることが多い
私利私欲の四字熟語がある。反対に仏教には忘己利多ということばがある。だれもが幸せに生きていくための対照的なことばである。
良くないとわかっているのに止められない現象が世界中にあふれている。個人の関係に止まらず、国と国でも言えそうである。利によりて行うリーダーを歓迎する風潮もある。でも、世界の人の心を打ち、勇気をくれるのは 私利私欲を克服した人の言葉や行動ではないでしょうか。
子曰く、故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る。以て師と為る可し。
先生はおっしゃった、過去に起きた歴史的事実を今につながることとして学ぶ人が先生になる資格がある。
「温故知新」という四字熟語の起源になった段。歴史を現実に生かすことを考える学びの姿勢を示し、今も生き続ける視点とことば。
大震災や災厄が起こる度に、過去の歴史が掘り起こされる。今回の新型コロナウイルスの発生についても、ペスト、スペイン風邪、サーズ、マーズのことが取り上げられる。ウイルス予防のために、多数の人がしていること、手洗い、マスク、うがいなど100年前から変わらない。
コロナウイルスが落ち着いても、続けなければならない習慣は残りそうである。故きを忘れず、改良しつづけることが求められる時が来ている。
子曰く 学んで思わざればすなわちくらし。思うて学ばざればすなわち あやうし。
先生がおっしゃった。書物や先生から学ぶだけで、自分で考えないと混乱する。と言って自分で考えるだけでは独善的になってしまう。
この論語は、「学而不思(学びて思う)」と「思而不学(思いて学ぶ)」の二語(学ぶ・思う)が入れ替わっただけで、深い思索の世界が開ける。
学ぶというほどではないが、現代人は大量の情報にさらされている。あまりの情報量に心が病んでくる人も出そうである。
書物を読むよりも簡便に高速で情報が飛び交う世界に生きている現代人だからこそ、疑問を持つということが求められている。情報をそのまま受け入れず、まず考える。自分の素朴な疑問や考えを大切にする。機会があれば質問してみる。
一切の情報を拒否して、自分の考えを主張して生きることは難しいけれど、常に疑問や考えを持つことは大切にしたいものである。
子曰く、由、女に之れを知ることを誨えんか。之れを知るを之れを知ると為し、知らざるを知らずと為す、是れ知る也。
先生が言われた、由よ、知るとはどうゆうことか教えようか。わかった事はわかったとし、わからない事はわからないとする。これが知るという事だ。
由は本名。字(あざな)を子路といった。孔子の高弟。孔子に愛された。性格がナイーブで豪快。考える前に行動する弟子の性質を理解して諭した言葉。
知っているつもりで知らなかったことの多い今の日本。
消毒液、体温計、医療関係者に必要なマスクや防護服などが輸入に頼り、自国で自給できないことも知らなかった。では、これからどうすればよいのか、私たちひとりひとりが、問われているのではないかと思う。
子曰く 君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。
先生がおっしゃった。立派な人は他人と協調できるが、何でも同調したりしない。つまらない人は、すぐ同調するが、真実仲良くできない。
君子は立派な人、小人はつまらない人。二人の違いを「和」と「同」の位置を入れ替えて、巧みに表現されている。自分の意見を持たず、その場で簡単に賛成して、後で文句をいう人を「付和雷同」という
現代社会が最も気を付けなければいけないことのひとつ。
正しいか正しくないかも見極めず、その場の空気に流され、多数に同調する事を警戒しなければならない。少数意見を封殺したり 罰したりして後で後悔した例を見たり、聞いたりている。
本当に仲良く生きるには、相手のことを理解して、ダメなことはダメと言いその上で仲良くすることである。よく考えず成り行きで賛成して、後で文句を言うような人は信用できないと思う。
子曰く 人、遠き慮りなければ、必ず近き憂いあり。
先生がおっしゃった。人は先々のことを常に考えていないと、必ず 近くで心配なことが起こるものだ。
「遠慮」と「近憂」という対照的な熟語が生まれている。ただし、「遠慮」は私たちが普段使っている言葉とは意味が異なる。「深謀遠慮」という四字熟語もある。
今回のコロナウイルス対策で、台湾の対処が世界中から称賛されている。
台湾は17年前のサーズ対策の失敗を活かし、感染の広がりを抑えられている。
コロナウイルスを乗り越えても、次にどんな災害が生じるかは誰にもわからない。
私たちひとりひとりも、地域、国、地球を大切にしながら備えなければならないのかもしれない。
論語の教えがコロナウイルスにも有効とはね~。
子曰く 君子は諸(これ)を己に求め、小人は諸を人に求む
先生がおっしゃった。君子(こうありたい人)は何事も自分に求めるが、小人(つまらない人)は全て他人に求める。
君子(こうありたい人)と小人(つまらない人)との対比表現
君子(こうありたい人)とはどんな人だろう。
何でも自分の責任と思う人と、何でも他人の故にしたがる人。「自己責任」という言葉もよく使われるようになったが、それが行き過ぎることは論語の本旨に合わないだろう。医療従事者に対しコロナウイルス感染を自己責任として攻めるなどはその一例である。どんな世の中でも真心や思いやりを大切にし、よく考え、冷静に振る舞うことが、いま求められていることではないか。
子曰く 巧言令色鮮し仁
先生がおっしゃった。心にもない飾った言葉、つくり笑顔、ウソ泣き、こんなことをする人に真実味はない
「巧言」は相手が気に入るような飾った言葉、「令色」も相手が気に入るようにわざと作った表情。同類の言葉に「美辞麗句」「こびへつらい」「追従(ついしょう)」「おべんちゃら」などがある。
今、困難な時代を生きる人が求めているのは、心のこもった真実の言葉。、苦しみを直視し、現実をしっかり見据えた言葉。それを聞いて助け合い対策を考え、希望が持てる言葉。言い訳、弁解は聞きたくない。間違っていたら率直なお詫びの言葉。
そんなことを思いながら、テレビによく出る人たちの表情を見、話す言葉をじっくりと聞いている今日この頃。
子曰く 過って改めざる、是れを過ちと謂う。
先生がおっしゃった。過ちをおかしながら、これを改めないことを過ちというのだ。
「学而」編にも似たような表現がある。『過てば則ち 改むるに憚ること勿れ。』どちらも同じ趣旨である。
誰でも「しまった」と思う経験はある。私事であれば、他への影響は無いかもしれない。しかし「しまった」の主が組織であったり、国家であったりすると大変なことになる。「しまった」の主は大きくなるほど、過ちを認めないばかりか長々と言い訳をする。なかったことにしようとする。人間は失敗する生き物である。だから失敗とわかったら、潔くそれを認め、謝罪し改める道を考えるなら、希望も生まれる。
何だか孔子先生に励まされているような気になってきた。
子は怪・力・乱・神を語らず。
先生は妖怪変化などの不思議現象、超人、超能力、収拾不能の混乱、神と呼ばれる不可解な事について距離を置き、言及されることがなかった。
怪は怪異現象、力は超能力や超人のような力業を持つ人、乱は人では収拾不能の大混乱、神は天の神や死者の霊魂など合理的な立場からは非合理の世界のこと
2500年も昔に、かくも合理的な姿勢を貫いた人が存在したことで、改めて考えさせられる。儒教は死後の世界を説かず、現世の生き方を追求した教えである。
今も説明や解明されないことが起こると、たたりや怪異現象で説明したり拝んだり祈ったり考える人も多いですね。
アマビエさんを、拝んだり祈ったりする気持、少しわかります。
子曰く 歳寒くして然る後に松柏の彫むに後るることを知る也。
先生がおっしゃった。寒い季節になって松や柏がしぼまないことがわかる。
松や柏は年中落葉することがない植物。寒い季節は、人間が危機に陥る時のたとえに使われている。
人の価値は逆境や苦境に立った時に、わかるという表現。苦しい時にも態度を変えず、信念を持つ人を讃えて「松柏の質」という言葉もある。
困った時や苦しい時も 変わらず人に接する人は多くない。調子が良い時や利益が得られそうな時はチヤホヤし、逆境になったり、接しても得にならないとわかると、掌を返すのが大方の人間の常。芥川龍之介の「杜子春」はそれを小説にして多くの人に知らしめた。
しかし、数少ないけれど、良い時も悪い時も態度の変わらない人がいる。そんな例に出会うと希望が湧き「人間って良いものだ」と思える。非常事態の今、個人も国も『松柏の人』になってほしいと願う。
子は温やかにして而もはげし。威ありて而も猛からず。恭しくして而も安し。
先生は穏やかだけれど、厳しい。威厳があるけれど、高圧的ではない。礼儀正しいけれど、堅苦しくない。
「温やか」は温和。「はげし」は厳しいこと。聖人と言われる人の厳しさは、まず 自分に向けられる。無私であるから、間違ったことに厳しく対せる。「威」は堂々としておごそか。軽々しいふるまいを許さない雰囲気がある。「恭しい」はきちんとして礼儀正しい。「安し」は堅苦しくない自然な態度。
多くの人が慕い、寄り、その教えを学び、2500年が過ぎても、その教えが世界の人に影響を及ぼす「孔子」とはどんな人物だったのかを弟子が書き残した文章。
穏やかだけれど、厳しく。一見近寄りがたい威厳があるけれど、人を押さえつけるようなところはない。礼儀正しくキチンとしているが、人に強要するような堅苦しさはない。この内容から「孔子」という人は、反する要素が見事に調和した人だったことがわかる。この人柄が弟子たちを魅了し、儒教が生まれたのでしょう。
食らうに語らず。寝ぬるに言わず。
先生は食事中は話をされず、就寝中は決して口を利かれなかった。
「食らう」は「食う」「飲む」のぞんざい、なげやりな言い方だが、ここでは普通に食べるの意味で使われている。「食らう」という言葉には、物事を受けた時のいやな表現にも使われるが、この文にはその意味はない。
西欧風なエチケットが定着した今の日本では、食事は単に食べるだけでなく、会話を楽しむことが求められる。しかし儒教道徳が浸透していた頃の日本の子どもたちは、黙って食べることが行儀がよいとされた。食事中にしゃべっていると、「黙って食べなさい!」と大人からお叱りが飛んできた。
新コロナウイルス感染拡大している中、黙って食べることが求められている。これから人類は、静かに生きて行くことが求められているのだろうか
子曰く、吾十有五にいて学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず。
先生が言われた。私は15歳で学問で身を立てようと決心し、三十歳になってやっと自立できた。四十歳なって迷いがなくなり、五十歳で天が自分に与えた使命を悟った。六十歳になって人の意見を素直に聞けるようになり、七十歳になると自分のしたいことをしても、人としての規範を越えることがなくなった
孔子が自分の一生を振り返って語った文章。
ここから、15歳を「志学(しがく)」、30歳を「而立(じりつ)」、40歳を「不惑(ふわく)」、50歳を「知命(ちめい)」、60歳を「耳順(じじゅん)」というようになった。とりわけ「不惑」はよく使われ、今でも年齢を聞かれて、「不惑です。」と答える人がいる。
2500年前の中国は、今の平均寿命とは比べようもない。孔子は紀元前479年73歳でこの世を去った。この文にあるように、思い通りにならない苦難の生涯だったが、多数の弟子に慕われて後世の人々に多大な影響を与え続けている。孔子が学に志す15歳まで、現日本の子どもたちは、習い事や塾に追われながら学校に通い、義務教育を修了する。そして、寿命はといえば、グンと延び百歳まで生きるのも、夢ではなくなっている。中には、心の欲する所に従って、矩を踰える暴力老人などの悪い噂も聞こえてくる。心身の健康を志しながら、いま何をするべきか?論語はこんな問いかけもしているようである。