当教室国語部門で採用している
素読。
ことば蔵で開催された
寺子屋企画でも披露させていただきました
この素読、じんわりと効果が出てきています
傍目には『意味を教えずただ読んだって、効果が出るわけがない』と思えます
でも、実際に素読してみると分かるのですが、素読の題材としてよく利用されている
論語などには、心豊かに生きるための【教訓】が多く含まれていて、これを暗唱できるほど何度も声に出して読みあげることで言葉が記憶に残りやすくなり、ある時自分の経験と繋がる瞬間が訪れた時に、深く腑に落ちるのです
他にも、何度か口にした言葉を他で聞くと、脳が反応します
『あれ?前に聞いたことのある言葉だぞ?』と。そして、どういう場面で聞いたかを思い出そうとします。
これは、教科書で初めてその言葉に触れる子よりも
言葉に対する感度が高くなっている証拠です
聞いたことがあるのに思い出せないモヤモヤから、
その言葉についてより多くの情報を得ようとする姿勢が身につきます
今年度は、六つほどの句を三ヶ月かけて読み込むようにしたところ、そのうちの一つの句の意味を話した際に、ハッと何かに気付いた子がいました。
【学びて思わざれば則ちくらし
思いて学ばざれば則ちあやうし】
私なりに訳すと
「教えてもらったことを自分で考えなければ わからないまま。逆に自分の考えだけに頼って、人に意見を聞かずにいると、間違った方向に進んでしまう恐れがある」となります。
これを伝えた時、彼女は自分がなぜ毎回同じ注意を受けるのか、なぜ他の子のように大人の言ってることを理解できないのか、ということの答えを得たのでした。
『そっか!
自分で考えてないからわからなかったのか!』と。
最近、「分からない子にはわかるまで、簡単なものからとことん丁寧に教える」系の教育論があちこちで聞かれますが、子供の可能性をバカにしてるのかと言いたくなります。
先天的にできない子のための教育を、
できるけどやらない子に施せば、その子は自力で何かをやりきった時の達成感なんて知らずに育ってしまいます。自分はわかろうという努力をしなくても、周りが頑張ってわかるようにしてくれるなんて、そんな楽なことはないですもんね。
モヤモヤを抱えた状態で答えが降りてきたときの、あのスッキリ感
それが、学びの楽しさに繋がっていくはずなのに、わかる前にわかるように教え込まれるなんて、まるでプログラミングです
話が逸れましたが、ここで自分が考えていなかったことを自覚した彼女は今、色んなことを観察し、自分なりのセオリーを立てて、いろいろ実験しながら理解に繋げていく、、、という作業をするようになりました
顔も引き締まってきて、心なしか、これまでよりも自信がついてきた感じ
これからも、言葉に対する感度を高めるだけでなく、子供たちが求めた時に【答えはすでに自分の中にある】という状態を築く
素読、しっかり進めていきます
※ 写真は、看板とノボリを設置した、阪急伊丹駅前校。素読は堀池校のみで行っていますm(_ _)m